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「薬研(やげん)」と「片手切」を前にして創業350年の歴史を語る大坂屋薬局14代ご当主の武内さん |
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| これは珍しい「片手切」(片手盤)です 細長い薬草を細かくするのがこの「片手切」 硬い生薬を砕くのは「両手切」、さらに細かくすりつぶすのは「薬研(やげん)」と石臼の仕事であった。 |
草加宿の誕生について |
| 草加宿の誕生は、草加市発行の『草加市史』によると『草加宿由来』には、慶長元年(1596)以来大川図書の差配により近隣村々の協力のもと街道整備が進められ、慶長11年(1606)にはほぼその完成をみたと示されていると言う。 |
大坂屋さんの名前の由来 |
| 武内さんの祖先が大坂の道修町(どしょうまち)から草加に移り住んだのは、草加宿400年の歴史より40数年後の正保(1644〜47)の時代だそうです。それで大坂屋という屋号になったとの事です。 |
大阪の道修町(どしょうまち)について |
| 大阪の道修町について、PHP発行の歴史街道(平成5年7月号)『薬の先進ビジネスパーク大阪道修町の300年』を掲載した安部珠樹さんによると、大坂の道修町は豊臣秀吉によって人工的に形成された城下町の一環である。しかし道修町は最初から薬の町だったわけではなく、延宝年間(1673〜81)の記録によると、薬関係の店も多いが、その他に畳屋、たんす屋、炭屋なども固まっていたという。総合的な商業地域であった。薬の町としての姿を整えるようになるのは、享保年間(1716〜36)八代将軍吉宗の頃である。吉宗は養生所を設置したり、薬草の研究や栽培を奨励したりするなど、現在でいう厚生事業に積極的だったが、その一環として薬種の検査や鑑定をまとめて行う『和薬改所』を置く事にした。その場所に選ばれたのが道修町だったのである。 幕府の政策により道修町は全国の薬種の流通センターとしての機能を果たし始めた、としている。 |
和薬改会所に関する町觸(まちぶれ) |
| また、道修町のHPを調べると「和薬改会所に関する町觸(まちぶれ)」の項目で次のように紹介されている。八代将軍吉宗の『享保の改革』のなかで、諸国の薬草を調査し薬草栽培の奨励を行い、和薬(国産の薬種)の種類と量を増大させる政策がとられました。また享保7年(1722)6月、江戸、駿府、京都、堺、大坂の薬種屋の代表を江戸に集め、本草学者 丹羽正伯の指導の下で、和薬種の検査方法と基準(和薬種六か条)を決定させた。そして上記5都市に「和薬改会所」を設置させ、各地からそれぞれ都市に入る和薬種は、和薬改会所の検査を受けなければ販売できない体制を作りました、としている。 また当時大坂・道修町には、長崎に輸入された唐薬種を一手に仕入れ、品質を吟味し目方を改め値決めをして全国に卸販売する薬種仲間がすでに成立していました。「和薬改会所」が設置されるにあたり道修町薬種屋仲間124軒が株仲間として公認され、同年8月から淡路町一丁目に置かれた会所で、日行事(当番)3人が毎日交代で詰めて、改会所に持ち込まれる和薬種の検査を行いました。その時「和薬改会所」が設置される事についての大坂町奉行の「町觸(まちぶれ)」が惣年寄を通じて町々に発せられました、としている。 翌年の享保8年(1723)12月、大坂では「和薬改会所 和薬問屋へ替り候 御町觸」が発せられ、20人の和薬問屋が決められて、大坂に入るすべての和薬は、和薬問屋へ集荷され、その問屋が改会所で和薬種の検査を行う事に変更されました。(他の都市は従来通りのまま) |
創業350年とは、全国にも稀である |
| 大坂の道修町から草加に移り住んだ武内さんの祖先は、以上のような1700年代の本格的に薬種業が確立するより、はるか遡る前に道修町に在住していたのであれば、今のところ定かではないようですが、もしかしたら1600年代初頭(江戸幕府開闢)からの薬に関係する商人か薬師(くすし、医者)であったかも知れません。 したがって350年前の正保の時代(1644〜47)に草加で最初の薬局を開業したということは、全国でもまことに珍しいケースであり、日光道では最初の薬局であったのではないかと思います。 『奥の細道』の旅に出た松尾芭蕉は、この草加宿に立ち寄っています。それは元禄2年(1689)3月のことであったことから、旅の道中で体の不調があれば芭蕉の一行は、草加宿の中にあった薬種業の大坂屋さんに薬を求めていたかもしれません。 さらに文政10年(1827)の「諸国道中商人鑑」(国立国会図書館所蔵)には、草加宿の大店が9軒記されていて、そのうちの一人に「草加駅二丁目 薬店(粒甲丹・截瘧薬<おこりきりくすり>)大坂屋庄蔵」として記載されていることも特記すべきことだと思います。 |