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※参考図書「草加市史」通史編(草加市史編さん委員会)
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| 草加新道ができる前 |
| もともと道は、河川によって造られた自然堤防上の集落を連ねるように自然発生的に生まれたようです。草加市付近の古道としては、千住から大曽根村・鶴ヶ曽根村(八潮市)から柿木村(草加市)、南百村・大相模村(越谷市)を通る道のほか、川口・鳩ヶ谷を経て、大門村(さいたま市:旧浦和市)、岩槻から幸手へ続く台地沿いの道もあったようです。 |
| 草加新道(日光道中)の造成 |
| 「草加宿由来」によれば、慶長年間に大川図書という人物の差配で近隣村々の協力のもと街道設備が進められたといいます。1614年に書かれた梅津政景(秋田・久保田藩)の日記によれば、政景は越ヶ谷から草加を通って江戸に向かったことが記されおり、政景はその後も度々この道を利用しています。このころには、現在の日光街道の原型が出来ていたようです。江戸幕府は、千住宿と越ヶ谷宿の間にかなりの距離があったので、その最短の道を整備させましたが、この記憶が大川図書という人物に集約されていったようです。 |
| 草加宿の誕生について |
| 江戸時代の初め、日光東照宮の造営や参勤交代制度の確立などによって、奥州・日光街道の重要度が増したことから街道の整備が進められました。千住宿と越ヶ谷宿の中間の地に1村で宿を形成できる大きな村がなかったので、近隣の村々から人々を集めて、新しく宿が作られました。これが草加宿です。1630年、幕府公認の宿場として草加宿が正式に誕生しました。 |
| 草加の名前の由来の一つ |
| 代官頭の伊奈忠次の命により、大川図書という人物が中心になってアシやマコモ、ヤナギなどの草木を束ね、土に加えて道を作りました。この地に鷹狩りに訪れた2代将軍秀忠は、新道を見て、草も役に立つものだと感じ入り、この地を草加と名付けたといいます。(「草加宿由来」より) |
| 川の流れを替え、堤防を作ることによって干拓が進んだ |
| 草加地域の綾瀬川流域は、広大な湿地帯で沼沢地が広がっていたので干拓地としては不安定であった |
| 葛西用水 |
寛永6年(1629)伊奈忠次が荒川通の石原(熊谷市)に堤を築きなどして、荒川は入間川を合わせて浅草川に流下させた。これによって源流から切り離された荒川は、他の湧水を集めた流れとなり元荒川と称されたが、荒川の分流である綾瀬川もその水量が減少した。
このため亀有溜井の用水は羽生領や幸手領の用水を貯水した瓦曽根溜井より引水することになった。これを葛西用水と称する。 |
| 新綾瀬川 |
一方水量が激減した草加の綾瀬川は、これを機会に伊原(越谷市)や立野堀を大きく迂回した綾瀬川を蒲生村から谷古宇村にかけて直線の流路として開削された。これを新綾瀬川と称している。つまり、これが草加松原の新川であり、元の迂回流路は古綾瀬川と称されることになった。 |
| 伝右川 |
| また、これを機会にさらに新田の開発を促進するために、伊奈家の家臣井出伝右衛門は、玄蕃新田から瀬崎地先の綾瀬川までの悪水路を開いた。この水路は伝右衛門川(でんえもんがわ)とよばれたが、のちに伝右川(でんうがわ)と略称された。これにより流域湿地の沼水は伝右川に落とされて新田が成立していった。 |
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